将棋が「好き」という気持ちについて
今回は将棋が「好き」という気持ちの温度差とそれに対する私の考えについて書いてみます。
テーマは「将棋が好きという気持ちについて」です。
将棋が「好き」ということ
気持ちの温度差
「君は将棋が好きかい?」
この質問を、私はおそらくうちの将棋教室のすべての生徒にしたことがあると思います。その結果はほとんどの子が「好き!」という返事だったと記憶しています。
ただ、この「好き」という気持ちの行動への表れ方は、子どもたちの性格や考え方、そして将棋に何を求めているかで違ってきます。そして、それが「好き」という気持ちの温度差として比較されることも多々あります。
例えばプロ棋士になりたいという子どもが二人いたとします。この二人は将棋に求めているもの、つまり目標が同じですので、それに対する努力の姿勢に差があるのであれば、それは「好き」という気持ちの温度差であると考えてもほぼ間違いではないでしょう。
しかし、将棋を友達と遊ぶゲームと考えている子とこの二人を比べた場合、そもそも将棋に求めているものが違うため単純な比較が難しい部分があります。ですが、そこにはやはりはっきりとした「好き」という気持ちの温度差が存在すると私は考えています。
「好き」を超える
以前の記事でも書いたとおり、将棋にはさまざまな側面があります。その中でも特に「芸事」のレベルで将棋に取り組んでいる子どもたちは、おそらく将棋を「趣味」という言葉で捉えてはいないと思います。もはや、その子たちにとって将棋はライフワークであり人生の一部でもあるといっても過言ではないでしょう。
「将棋が好きなら、ほっといても勝手に強くなる」
とは、昔から将棋指導者の間で語られていることです。
要は、そのレベルで将棋に取り組んでいる子どもたちにとって将棋が強くなるための努力の大変さよりも、将棋を指さないことの苦痛の方が耐えられないということでしょうね。
以前ある子のお母さんが、その子に将棋を指導している先生に相談をした話を耳にしたことがあります。
その内容は、
「うちの子はご飯の時間だと呼んでも将棋に夢中で部屋から出てこない。トイレに行くときも、お風呂に入る時でさえも詰将棋の本を手放さない。先生、うちの子はこれで本当に大丈夫なのでしょうか?」
という話でした。
まぁ、さすがに人としては一概に褒めていい話かどうかは難しいところですが(汗)。
しかし、そこまで将棋を「好き」になってくれたことに対しては、将棋指導者としてやはり嬉しい気持ちがありますね。
将棋指導者として
「好き」という気持ちに対する指導のスタンス
私はどちらかというと「芸事」や「知育ゲーム」として将棋を伝えている指導者のカテゴリーに分類されると思います。ですから将棋は強制されて指すものではないし、そもそも将棋が「好き」ならそんなことをしなくても勝手に指すだろうと考えています。
うちの将棋教室においては、入会前に意思確認をした上で少しずつでも上達を目指す場として一生懸命頑張ることを求めていますが、最終的にどこまで頑張るかの判断は子どもたちが自分で決めるものです。アドバイスはもちろんしていきますし、自分で決めた目標を持った子にはそれレベルに合わせて「これをやってみましょう」と課題を出すこともあります。
でも、私は子どもたちの「鏡」であり、子どもたちの「熱量」を反射すればいい存在です。その「熱量」を超えた指導はただの押し付けになる可能性もありますから。
私はある意味ダンスパートナーであり、踊る気のないダンサーのパートナーを務める必要はないと考えています。
「好き」という気持ちを否定しない
最初に述べたように、「好き」という気持ちの行動への表れ方は多種多様です。その行動の違いは端から見れば、努力している子とあまり努力していない子という違いに見えるかもしれません。
ですが、それはある意味その通りな部分はあると思いますが、それがすべてではないとも思います。というのは、そもそも求めているものが違えばそれに伴う将棋の接し方について差が出るのは当然だからです。
「プロ棋士」になりたいという目標をもって将棋に取り組んでいる子にも、友達と遊ぶゲームとして将棋を楽しんでいる子にも、違った形の「好き」という気持ちがあるでしょう。
将棋指導者として、将棋が強くなるための努力の差によってそれらの違う形の「将棋が好き」という気持ちを否定してはいけない、と私は考えています。
今回は以上です。
ご覧いただきありがとうございました。
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